昭和40年12月20日 夜の御理解
今日善導寺の親教会に豊美と二人で参りました。ちょっとあちらで松影会という、隣組教会の総代さん方の集いございました。それあの豊美もあちらで御用がありますから一緒に参りましてから、今日バスで行ったんです。バスから降りてから、本当に有難いとこう思うんですね。もう私は思うのに、ほのぼのとしてありがたいという様な心の状態で、何時もおれれるということ。
それはね、何時もその温かい心でね、自分の周囲の誰彼のことが祈れたり思えたりすることだと思うですね。もう、私は信心は此処のところ頂いていくことだと思うですね。私は、自動車から降りさせて頂いたらホット、その以前商売を致しております時に、一緒にいたしとりました善導寺に下津さんて方がおります。いい方なんです、私がもう強引にお導きして善導寺に教会にお導きしとりましたから。
それが縁で奥さんが、今、善導寺で非情に熱心に信心をしておられます。本人は別に信心が反対じゃないけれどもしておりません。殆ど、商売がら福岡の方へ行っとられるんですね。それで豊美も知っとります。ほんにこの頃、下津のんおっちゃまどげんしよるじゃろうか、たまには出てくればいいのに、本当にたいして裕福とか調子がよいという風でもないらしいんです。
例えば、奥さん達の模様から見ると、善導寺で奥さんといるもお会いするんです。下津のおっちゃま、出てくりゃよかろうとこにね と、本当いうて話して行きよったらです。そしたら、アラ向こうから見えよっとは、下津のおっちゃまじゃなかですかちいうですもん、そん時会うた時の私の喜びというか、向こう大変うれしかごたる風ですね。思いというのは通うです。
それがしかも温たかぁいどうして出て来んね、それがもう忙しかばっかり、こんだ正月はどうでんこうでん出てこらして頂くてから別れたんでございますけれども、信心とはそういうですね、自分の知っとる限りズーットこうやって、思い出してから思わにゃならんとじゃないけれども、ふっと思うた時にあの人は今どうしよるじゃろうか、幸せだろうかと、幸せでないなら私がもっとるならそれをあげたいと、いう様なですね。
どの様な場合にも、どの人の上にでもそういう心が使えられる、そういう心が分けてあげられることだと思うですね。例え、あの雰囲気にハッと思ただろうと思うです。お父さんが、今こそ下津のおっちゃまのこと話しよんなさったら、もう向こうから下津さんが現れてきよんなさる。しかも、いやあご無礼しよじゃなくてです、ほんに時間があるならまいっときお互い話したいという雰囲気なんです。
もう、本当に今日は、正月になったら、本当に椛目に行きたいという気持ちがしただろうと思うです。私の、いうならそういう思いというですか、そういう思いで、私は、人生というものがいわば意義を招じてくるのだと、本当に有難いという意味での人間関係とか、生活という上においてからおかげを頂けてくる。もうあんやつがこつ思い出すと腹立つということじゃいかんですもんね。
本当に、私はそこの温かい心で思いやるということ、果たして家族家庭の中だけでもそうなんです。家内が主人を、主人が家内を親が子を、子が親をね、兄弟がそういう温かい心で思いやるという生活、そういう生活が私は極楽というのじゃなかろうかとこう思うですね。今度、ここのお広前が合楽に移転いたします。神様からもう何時ぐらいでございましたでしょうか、あれが、土地が購入でける頃だったでしょうか。
善導寺、大橋、合楽とうことを頂いたです。善導寺と言うことは善導ですよ、よいお導きということです。よいお導きを頂いて、いわゆる大橋というのは氏子の世界と、神様の世界を取り結ぶ大きなおかげのいただけれる、神様と氏子の交流する世界ということ。向こうにどんな素晴らしい島があっても、こちらの橋がなからなければ渡れん様にです、大きな大橋がある。
おかげで難儀から幸せの世界に住み替えていくことがでける。それには、先ず善導、よいお導きを頂かなければならない。温かい心での思いというものによってです、お導きの善導を受ける。そして、大橋を渡らしてもらう、そこに合楽、合楽というのは、只今私が申します様なことだとこう思うのです。もう私だけが助かりゃよかというのではなくて、私が助かると同時に家内も助からにゃならん。
親も助からんならん、兄弟も子供もなおさらのこと一緒にこう助かっていく、お道の信心はそこからでけていくですね、神様だけが氏子だけがと言う事じゃいかん、神様と氏子との中に所謂あいよかけよで立ち行く、親のことは子が願い、子のことは親が願い頼み合い致せとも仰る。あいよかけよで立ち行くのである。あいよかけよ、両方が拝み合うていく生活、両方が極楽といえれるのである。
自分だけ極楽になったら、相手の人は地獄になったじゃいかんでしょうが、世の中というのはそんなもんです。それこそ、自分が立ち行くことのためには人を殺してでも、自分の立ち行くことのためにはです人が損をしてでも、人の茶碗を叩き落としてからでも、自分が楽をしょうというような心の中には、いわば合楽のおかげにはなってこないです。本当に、神ながらなことだなあ恐らく、椛目のお広前がです。
合楽の教会として、おかげを頂けれるところにです、本当に合楽を求めてです。たくさんの人があすこに集い集まってくるだろう、ためには、今の椛目のご信者さんがです、此処のところをようく分からして頂いて、赤の他人の誰彼のことだってです、温かい温かい思いでですね。思えれる様なおかげ、そのことが、神様の心に叶うのです、ですからおかげを受けるのです。
私、今晩、今先っきお風呂を使わせて頂いたんですね。それで、そのそれも勿論ですけども、お湯が少ーなくなってから、お水が白くなっとる。私は、お風呂に入らせて頂いてから、何時もこれは、私は思うんですね。ですから、後々の最後の人迄が気持ちよう、最後の人迄がアーよか風呂じゃったというてから、いわば、お風呂の中でアー極楽、極楽といえれる様な雰囲気とか。
又そういうことを思い合いつとめおうていかなければいけないと、風呂一つでもそうなんです。だから私は、必ずその大体何時も一番風呂に入りますけども、入ったら必ずまた次の人がいっぱいになる位うめとくです。沸くのはすぐ沸きますから、もちろんですから、中でタオルなんか勿論使いませんから、もう何時も奇麗です。ところがそのまあ子供達でしょう、その中へ入って遊びますもんですから。
湯を汲み出して湯の少ない中でタオルなんかつけて遊びますでしょう。水は濁っておる ねぇ。そしてそこで、いわばお風呂入ってアー極楽極楽といわなければならない様な、風呂の中で極楽をいえない、どうした汚なか汚し様じゃろうか、という様なことででは、私はおかげにならん。次の者次に入る人のことをです、皆を思うたら最後までよい風呂、いわば極楽風呂に入ることがでける。
私は、もう石鹸でも何でも、私は湯桶を、ね 今のセルロイドでない、あれはプラスチックで作ってあるですから、すぐ垢がこれにギザギザ溜まるんですよ。だから、あれを使う時に、これがギザッとする時に気持ちが悪い。だから、使った後に奇麗に洗っておく、後の人が気持ちがよかろうと、例えば、信心というのはです、人の見ておる、人に見てもらうのではなくて。
神様は何時も見ておられるというところから、信心は出けなければ駄目です。お徳を受けたと、大変なおかげを受けれたという人は、そういうもう誰ぁれも風呂の中じゃけん自分一人だから誰も知るまいごたるけれどもです。神様だけが見てござる世界に生ぬいていくことが信心だということ。真心を持って実意をこめてお風呂を頂かしてもらう、おかげ頂いてありがとうございました。と
例えば合掌してからお礼の心で風呂を終わらせてもらう、その後には次の人もおかげ頂いてありがとうございましたと合掌して出れる様なです、ね、実意丁寧な風呂の入り方というものがあると私は思うです。皆さんどうでしょうかもう信心というのは人間が幸せになっていき、人間の家庭の上においても社会においてもこういう思いの人が段々多くなっていけば段々社会は明るくなり、温かいいわば国作りがでけるのです。
只人の見ておるところだけの私はものではなくて、信心とはいうなら表よりも裏を大事にする。形よりも中味を大事にするそれが信心なんです。例えば、私がお風呂を入らせて頂く時の様な心持ちがです¥、家族中の者にあるならばです、最後までいわばありがたいお風呂に終わると思うです。これは、風呂だけのことではない、一切がそうなんです。ためには先ず、そういう温かい心とか、実意丁寧な心というものがなからなければできることじゃないです。
いわゆる、しりくれかんのんです。もう後は野となれ山となれ自分さえよかりゃよか、後のことなんか温かい心で思い出しもしない、思うともしない、これでは、本当の幸せはやってくるはずはありませんですね。そういう様な私は、そのおかげを頂くためにです、結局どういうことになるかというと、私自身がです、本当にありがたくならして頂く稽古をしっかりしなければならんということになる。
信心とは一年一年ありがとうなってくると仰るから、自分の心の中に本当にありがたいという心、勿体無いという心、そういう心が段々自分の心の中に育ってくる。その、ありがたい心を持ってする時に、そうしなければおられなくなってくる。後の人のことを思わなければおられなくなってくる。自分の周囲のことを誰彼のことを思い出したら、アーあの人は、今どうしょるだろうか幸せになってるだろうか。
どうも、この頃奥さんがお広前で、善導寺のお広前で合う時にです。あんまり都合のよか風じゃないがどげんしよるじゃろうか。昔のいわば、お付き合いなんだ私は、それで、フットそのことを心の中に思わして頂いて、ほんに出てくりゃいいのに、出てくれば幸せになれるものを、今なら私が待っとるから、本当にさしあげられるのに、下津のおっちゃま出てくりゃよかところに、ね。
というて、豊美と話しながら行よったら、あら向こうから見えよっとは、下津のおっちゃまじゃなかですかとこういう。その出会いの時の、雰囲気というものは、こりゃ何ともかんともいえんです。もう言葉じゃないです。例えば豊美がそん時の場に、あり合わせてです。本当に、に友情とうものは素晴らしいものだと、もう別れて十五年、十七年にもなりましょうかね。
いわば、商売人友達の誰彼のことをです、ふっと思い出して出てくればいいのにと思いがそこに現れてです。私との出会いになった。その、雰囲気というものは、もう、言葉では恐らく豊美がどう感じたか知らんけれども、恐らくありがたいものだなあ、信心とはという思ったに違いないです。それが向こうにも通うんです、向こうの表現見りゃ分るんです。本当によい友達を持って幸せだといった様な言葉に表現するなら。
そういう様なものがです、お互いの心の中に交流する。そういう様な生き方があるのに、そういう生き方にならせて頂けることが信心なのに、信心しておってもです。今日はどなただったかしら話したことでしたけども、もう本当に、そんなことがあってよいはずがない。隣の教会が非情にこの繁盛する。それでもうそれがはがゆしてたまらん ちいう話を聞いたことがある聞いたんです。
ああ、それがね、あの他の商売とか、他の宗教なら仕方がないけれども、本当に自分自身銘々がありがとうなっていく稽古さして頂いとる。しかも、教会の先生がです、隣の教会が繁盛しよるちいうてはがいがらっしゃるてですね。色んな障害、邪魔をさっしゃる。向こうが幸せになる、しかし金光様の信心しょったっちゃ先生の中にでさえ、そげな人があるもんじゃけん、これは大変なことだなあとこう思うですね。
けれども、椛目の人達の場合はですね、本当にそこんとこに焦点をおいて、ひとつ、いわゆる合楽のおかげ、私の知っておる限りの人が幸せになっていくことを、思わしてもらい祈らしてもらい、思うだけじゃない祈るだけじゃない。それこそ風呂に入った時のそれの様に、お湯が少ないならも少しお湯を足しておく、汚れてるなら洗っておく、石鹸を取り替えておく、そこんにきは水を流して気持ち良く入られ。
皆が、ハアー極楽といえれる様な雰囲気を作っておこうという、そういうです、思いがなされていかなければならん。そうしなきゃならんのじゃない、そうしなければおられないという心をです、いわば、椛目では何時も教導受けとるわけなのです。そこんところをとにかく信心とはありがとならせて頂く稽古ということになるですね。そこに精進焦点をおかなければならんと思うですね。
どうぞ。